ひやりと、冷たい手に首筋を触られたような心地だった。注射の時に肌に塗布されるアルコールのように熱が空気中に逃げて拡散していく。心の表面を覆っていた生温い液体が急速に冷えていくのを感じた。(それは所謂、優しさとか称するもので、) 「見ただろ?」 そう目の前で笑う男は、酷く癪に触る笑い方をしていた。にやにやと、まるでこちらの心情を誰よりもわかっているかのように。恐らくわざとしているのだろうが、どちらにしても意識だけが氷のように冷えていくだけだった。今、目の前の現実が全てだ。 「あの首筋、俺がつけたんだぜ」 視線の先、既に着替え終わって三橋と話し込んでいる阿部の項に、ぽつんと咲く小さな紅が見えた。遠くからは虫さされのように小さなものでも、阿部の後ろで着替えをしていた俺には、それが明確な意思を持って吸い上げられたものだというのがはっきりと分かった。ああ腹立たしい。冷たい血が体中を駆けめぐっていく。 「・・・そう、泉だったんだ」 「そう、俺。何、意外だった?」 「別に。ただ、こんなにも手が早いとは思ってなかった。最近は三橋や田島に注意がいきすぎてたし」 「そのお陰で俺は案外楽だったぜ?一番の強敵はお前だと思ってたから」 「過去形なの?」 「過去形だな」 彼は笑い続ける。にやにやにやにや。でも余裕ぶったむかつくその表情とは対照的に、瞳だけが異常に冷たくこちらを見つめていた。一分の隙も見せようとしないその態度を、俺は内心で嗤う。そう、俺の前で油断なんてしたらどうなるか、分かってるね。 「いつやったの?」 「昨日、俺の家で。残念ながら、途中で親が帰ってきて止めるはめになったって言えば、安心するか?」 「少しね。でも、阿部がそこまで許しているとなると、もうやったと同意義だからあまり安心できない」 「お、わかってんじゃん」 「それと、いい加減ちょっと近づきすぎだよね」 「近づいてすらいないお前に言われたくねぇよ」 気が付くと部室には二人きりだった。阿部はとっくに帰ってしまったし、そう言えば自分が鍵当番だったことを思い出す。側を通りかかった水谷や沖が若干こわばった表情をしていたのも見た。自分は至って普通に会話をしているつもりだったのに、もしかしたら無表情にでもなっていたのだろうか。笑顔から表情筋を動かした記憶がないので、これは由々しき事態だ。 「すっげぇ無表情。お前のそんな顔初めて見た」 「・・・俺って機嫌悪くなると、無表情になるみたいなんだよね。といっても、他人に見せたことはないから、多分泉が最初で最後」 「阿部には見せねぇの?」 「まさか。俺が阿部にこんな風に怒ることはないよ。阿部には、もっと優しく笑顔で怒ってあげる」 「そっちの方が恐そうだけどな。つかなに、お前まだそんな風に阿部と接せると思ってるわけ?」 「もちろん」 俺は今まであまりしたことのないやり方で口元を歪めた。恐らく、目の前のこいつと似たような嫌な笑いをしているんだろう。それで分かってしまった。俺と泉は、根本的に似ている。 「俺は俺のやり方でやらせてもらうよ。今まで何も考えずに大人しくしていたわけじゃない」 「もう遅いんじゃねぇの?」 「泉も油断してると奪われちゃうよ」 「おもしれぇ」 今度は自分のやり方でくすくすと笑うと、泉も心底楽しそうにニヤリと笑った。どうしようもなく気分の悪くなる笑い。そのまま鞄を持って部室を出て行こうとする泉の腕を思い切り引っ張って、怪我をしない程度に床に突き飛ばしてやる。尻餅をついて唖然とした顔をした泉を見下ろして、どうしようもなく笑いがこみ上げてきた。 ドアノブを掴んで振り返る。天使のようだと称されたこともある自身で最高の笑顔を作って。 「最後に言っておくよ、 阿部の前から失せろ」 思い切りドアを閉めた。 外に出ると、日が落ちて一気に気温が下がった風が体温を容赦なく奪っていった。 空気中に拡散した気化熱が阿部の元へ届きますようにと願って、息を吐く。ああ体が冷たい。 気化熱を奪うために やまねさんに捧げる泉vs栄口冷戦話。 こう・・・もっとブリザードを吹かせたかったです・・・・。 それにしても世界は書きやすい^^ 07/12/02 一菜 |